経済成長目覚ましい、アジアの金融センター、シンガポール。
屋上にプールを持ったマリーナ・ベイ・サンズは、今世界で最も有名なホテルと言ってもいいかもしれません。シンガポールにはそんな華やかなイメージがありますが、一般市民の生活の実情はあまり知られていないのではないでしょうか。
映画『イロイロ ぬくもりの記憶』は、シンガポールの平均的な家庭の姿をリアルに描いた作品です。共働きで集合住宅に暮らす3人家族が、フィリピン人のメイドを雇うことから起きる軋轢と心の交流を通じて、シンガポールの市井の暮らしを丁寧に見せています。
監督は、これが長編デビュー作のアンソニー・チェン。本作は彼の少年時代の体験をベースに作られており、アジアの金融の中心地の本当の姿を見せてくれます。
いたずら小僧と出稼ぎメイドの絆
アジア通貨危機に揺れる1997年。シンガポールの集合住宅に暮らす3人家族の一人息子・ジャールーはわがまま放題の毎日で、たびたび小学校でも問題児扱いされています。
共働きの夫婦は、ジャールーの面倒を見切れずメイドを雇うことにします。シンガポールでは一般家庭でもメイドを雇うのは日常的なこと、その多くはフィリピンやインドネシアから出稼ぎでやってくる女性たちです。
この一家にやってきたメイド・テレサはフィリピンに幼い子どもを残して出稼ぎに来た女性です。彼女の主な仕事は、家事全般とジャールーの世話。しかし、ジャールーはテレサにまったく心を開かず、困らせるようなイタズラばかりおこないます。
一方、ジャールーの母親は、2人目の子どもを妊娠中で毎日働きに出ています。アジア通貨危機による不況でリストラの嵐が吹き荒れる中、彼女の仕事は解雇通知書を作成するストレスの高い部署です。そして、ジャールーの父はリストラされたことを家族に言い出せず、さらに投資に失敗し、多額の金を失ってしまいます。
そんなギクシャクした家庭に住み込みで働くテレサは、常に居心地の悪い思いをしていますが、ささいなことをきっかけにジャールーと親しくなり始め、2人の間には本物の家族のような絆が芽生え始めます。
しかし、母親はそれを見て嫉妬に似た感情を覚えるようになります。忙しい自分に変わってメイドに子どもの面倒を見てもらうことを望んだのは自分なのに、彼女はテレサに冷たく当たるようになっていきます。そして、父親のリストラも発覚し、いよいよ家族にメイドを雇い続ける余裕がなくなると、ジャールーとテレサの別れの日が近づいてくるのです。
日本の感覚では、メイドを雇うのは富裕層ですが、シンガポールや香港では中流家庭でもメイドを雇うのが一般的。東洋経済オンラインの記事によれば、費用は概ね1カ月で8万円程度だそう。住み込みなので、部屋を用意する必要はありますが、すれで家事のほとんどを任せられるのなら割安ですね。
年間100万円、メイドさんを雇って学んだこと(東洋経済オンライン)
シンガポールでは女性の社会進出が日本よりも進んでいますが、それはこうした割安で利用できる外国人メイドの存在も大きいようです。本作の母親も身重で働き続けて一家の収入を支えています。
監督の実体験がベースの物語
本作が優れているのは、メイドと家族の交流の良い点ばかりを描こうとせずに、対立や立場の弱いメイドへの不当な扱いなども赤裸々に見せている点。とりわけ、母親とメイドの対立が重要な要素になっていて、女性同士だからこそ気になる点や、子どもを取られたと感じる嫉妬心などがリアルに描かれています。
こうしたエピソードの元になっているのは、アンソニー監督自身の実体験です。監督の家庭にも幼いころにメイドがいたそうで、名前も本作のメイドと同じテレサというそうです。
シンガポール人の「生の姿」を 映画「イロイロ ぬくもりの記憶」 アンソニー・チェン監督インタビュー(SankeiBiz)
家族間の複雑に込み入った感情をリアルに描けているのは、子どもながらによく家族のことを観察していたのでしょう。微妙な夫婦関係にメイドと母親との対立などの細かい描写が本作を非凡なものにしています。
本作のような物語は、きっと多くのシンガポール家庭にあるのでしょう。華やかなイメージとは裏腹の、シンガポールの生の姿が教えてくてる秀逸な人間ドラマです。
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構成・文:杉本穂高
編集:アプリオ編集部