小さな平屋と狭い庭に所せましと生い茂る雑草と木々。そこに老夫婦が静かに暮らしています。
ちょっとした桃源郷のような雰囲気のその光景は、かつて東京豊島区に存在していました。映画『モリのいる場所』は、実在した日本画家・熊谷守一とその妻・秀子の風変りな生活を描いた作品です。
小さな庭にいっぱいの自然を育て、日がな一日昆虫や木々の観察をしながらのんびりと過ごす守一を温かく見守る秀子。穏やかな時間の流れるその家での暮らしは、現代人が無くした豊かさに溢れています。山崎努と樹木希林の名優2人が長年連れ添った老夫婦を見事に演じ、観る人を温かな気持ちにさせてくれる秀作です。
30年間庭の外に出たことがない画家
昭和49年の東京。御年94歳の画家・モリこと熊谷守一は一日中、庭の草木に住む昆虫を眺める生活をおくっています。彼はなんと30年間、庭の外から出たことがありません。妻の秀子はそんな夫と、淡々と52年もの時をともにしてきました。
2人の生活は穏やかなものでしたが、寂しくはなさそうです。なぜか、この家には近隣の住民などがひっきりなしに出入りし、モリには毎日のように来客があります。時には信州からわざわざ旅館の看板を描いてほしいとやってくる人があったり、カメラマンがモリの生活を撮影しにきたり。そして、向かいにはマンション建設が予定され、その工事関係者がやってきたり……。
高名な画家であるモリですが、自分が気の向いた時にしか絵を描きません。絵を買いにきた画商もいつのまにか家に入り浸るようになっていますが、絵を描いてもらうのはちょっとあきらめムードで、この家の静かな空間を楽しんでいるかのようです。
しかし、モリの家の向かいにマンションが建つことになります。マンションが出来てしまうと日当たりが悪くなり、庭の生態系が崩れる恐れがあります。時代の流れには逆らえないことを悟ったモリは、ある決断をするのです。
モリは、庭に寝っ転がってはアリやカマキリを観察し、日々新しい発見をします。彼が庭から出ないでもいられるのは、庭には人生を豊かにする刺激に溢れているから。モリは「この年になって初めて、アリが歩く時には2つ目の足から歩くことを知った」と言います。それが本当なのかどうかはわかりませんが、この小さな庭に住むたくさんの生物の全てを知るには、人間の一生があっても足りないのでしょう。探求心さえあれば、小さな庭だけでもずっと刺激的な暮らしをすることができるということを本作は教えてくれます。
モリの家は今では美術館に
本作の見どころは、やはりロケーション。小さいながらも豊かな緑に囲まれた庭が何と言っても魅力的です。実際の熊谷守一は、東京の豊島区に暮らしていました。都会のど真ん中という印象の豊島区にこんな豊かな庭を構えていたとは、今から考えると驚くべきことですが、そうした東京の失われた豊かさに思いをはせる作品でもあるのでしょう。
熊谷夫婦が住んでいた家は、今では熊谷守一美術館となって、モリの作品を常設しています。本作の撮影は、神奈川県葉山の古民家を改築して行われています。実際に木々を植え、昆虫たちが寄ってくるようにして、なるべく自然な状態をキープして撮影に臨んだそうです。本作の沖田修一監督はこの庭を「ひとつの宇宙」と表現していますが、まさに多くの生き物が暮らして生態系が出来上がっているような、そんな豊かさが映像から伝わってきます。
『モリのいる場所』モリの庭と夫婦の古民家(CINEmadori)
大きな事件が起きたりはしませんし、淡々と時間がゆっくりと流れていく作品ですが、それがとても心地良く、本作を観るといつまでもこの空間に浸っていたくなります。せわしない現代人の心の疲れをそっと癒してくれる最高のデトックスムービーです。
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構成・文:杉本穂高
編集:アプリオ編集部