優雅なだけじゃない、悲話をたどる京都巡りのすすめ──せつない京都(今週のおすすめ本)

優雅なだけじゃない、悲話をたどる京都巡りのすすめ──せつない京都(今週のおすすめ本)

日本屈指の観光名所として知られる京都には、歴史ある寺社仏閣が立ち並び、桜や紅葉も美しく、優雅で風流という印象を持つ人が多いでしょう。雅のイメージが強い京都ですが、実は悲劇の都でもあります。歴史を振り返ると、南北朝の内乱や応仁の乱、本能寺の変、池田屋事件、蛤御門の変など、さまざまな時代で大きな事件や戦がありました。今の姿からは想像もつきませんが、何度か焼け野原になったともいわれています。

そんな京都には、平清盛に心変わりされた妓王(祇王)が出家した「祇王寺」、愛する男と生きるためにすべてを捨てた遊女の眠っているという「常照寺」など、激動の時代の中で生き抜いた人々のせつないエピソードが残っています。本書は京都に生まれ育ち、京をテーマにした書籍を多数出版している著者が、きらびやかで美しいだけではない、京都の悲話を紹介しています。今回は、京都の中心、京都御所周辺のエピソードを紹介します。

参考文献:『せつない京都』(柏井壽著/幻冬舎新書〔2019年3月出版〕)

宗旦稲荷社(相国寺):茶の道を究めた狐のせつない最期

神社やお寺などに伝わる摩訶不思議な言い伝えの中には、せつない話が数多くあります。「相国寺」もその一つで、京都の臨済宗の五大寺である京都五山の第2位に列せられる由緒正しい名刹です。いわゆる観光寺院ではないため、どのようなお寺か想像しにくいかもしれませんが、相国寺は京都御苑のすぐ北側にあります。あの有名な「金閣寺」や「銀閣寺」は、この相国寺の境外塔頭(けいがいたっちゅう)、つまり寺社の敷地の外にある“坊”や“小院”だというと、驚く人も多いのではないでしょうか。

相国寺の話をする前に、京都と狐の話をしておきましょう。「京都と狐」というと、「伏見稲荷大社」を最初に思い浮かべる人が多いと思います。伏見稲荷大社をはじめ、お稲荷さんは狐を祀っていますが、その起源は京に都が築かれる前だと言われています。「稲荷大神」の使いとされる狐は、実は野山を駆け巡るあの狐と同じではなく、目に見えない神さまの象徴として、透明、もしくは白い姿をした動物を狐として祀っています。お稲荷さんに祀られている狐はどう見ても動物の狐にしか見えませんが、京都の街では動物の狐がよく出没していたそうです。京都のきつねうどんの油揚げは細切りにされている理由が「狐が食べやすいように」ということですから、狐がとても身近な存在だったことが伺えます。

その狐を祀っているのが、相国寺の境内にある「宗旦稲荷社」の社です。相国寺に現れた狐は人間に化けるだけではなく、囲碁を打てば名人でも太刀打ちができず、浄瑠璃を語れば多くが聞きほれるほどで、誰も狐だとは気づかなかったそうです。この狐が最も得意としていたのが「茶の湯」でした。

安土桃山時代、血縁はないものの千利休の孫として育てられ、今の三千家を創始した千宗旦(せんのそうたん)という茶人がいて、相国寺でしばしば茶会を開いていました。しかし、人気の茶人ゆえ遅刻をすることもあり、それを知った狐が先回りして宗旦に化け、何度も茶を点てます。ある日、塔頭「慈照院」の茶室開きで狐が点前を披露していたところに本物の宗旦が遅れて現れ、慌てた狐は茶室の窓を突き破って逃げます。このころから宗旦狐と呼ばれるようになるのですが、宗旦狐はネズミを食べたせいで神通力を失い、化けてもすぐ見破られて石を投げられるようになり、あげく井戸に落ちて溺れ死んでしまいます。それを知った相国寺の僧侶たちが宗旦狐を憐れんで祠を建てて祀ったのが「宗旦稲荷社」です。鐘楼の裏側に佇む社には、しばしば油揚げが供えられていますが、不思議と備える人の姿を見た人はおらず、地元の人は子狐の死を悼んで母狐が供えているのだろうと言っているそうです。子どもに先立たれた母狐の心中を察すると、何ともせつない気持ちになる話ですね。

「水田玉雲堂」の唐板:500年以上の歴史を持つ門前菓子

「宗旦稲荷社」のある相国寺から少し北に歩いたところにある「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」は、応仁の乱が勃発したところとして知られています。この神社は、不遇の死を遂げた崇道(すどう)天皇らの祟りを恐れた桓武天皇が、その御霊を祀ったことから始まったと言われています。その門前菓子として知られているのが、「唐板(からいた)」とよばれる煎餅菓子で、1477年創業の「水田玉雲堂(みたぎょくうんどう)」というお店でのみ作られています。

唐板は、平安時代に起源をもつと言われており、疫病除けの神饌(しんせん)と呼ばれる神様に備えるお酒や食事を再現したもの。砂糖の蜜と卵や小麦粉を合わせて薄くのばしたものを、短冊状に切って焼いた、控えめな甘さとしっかりした歯ごたえが特徴の素朴なお菓子です。

この菓子は一子相伝だったのですが、これを作り続けていた主人が病に倒れ、亡くなったことで閉店しました。しかし、惜しむ声の多さに一念発起した奥さんが試作に試作を重ね、1年半ぶりの2018年2月に再開。ほんのひとつのお菓子にも、長い歴史があり、作り続けてきた人の思いがあると知ると、格別な味わいを感じられると思います。また、夫の死を乗り越え、完成させた奥さんの心を思うと、せつなさが込み上げてくることでしょう。

「千本釈迦堂」おかめ塚:職人の悲しみを擁した“国宝”

京都といえば雅なイメージが真っ先に浮かぶと思います。平安京と重ねることが多いせいか、おじゃると言いながらのんびり過ごすお公家さんたちばかりが住む町のように思われますが、実際は忙しく立ち働く職人さんが多く暮らす街でした。代表的なのが西陣織をはじめとする伝統工芸です。その中でも、お寺や神社の建築に携わった宮大工にまつわるせつない話があります。

舞台は、千本今出川。洛中西陣の中心といっても過言ではないこの場所には、観光寺社ではないものの、由緒正しいお寺や神社がたくさん建っています。そこに、国宝の千本釈迦堂のある、「大報恩寺(だいほうおんじ)」というお寺があります。1227(安貞元)年に建てられたこのお寺は、参道の先に建つ本堂が国宝に指定されているという、非常に珍しいお寺です。

なぜあまり名の知れていないこのお寺の本堂が国宝なのかというと、800年以上も前の創建当時の姿を今に残しているためです。平安の都のイメージが強いせいか、京都には古くからの建造物が今も残っていると思われがちですが、京の街は応仁の乱でことごとく戦火に遭い、焼き尽くされました。応仁の乱が終結したのが1477(文明9)年なので、今の京都に残されている建築物のほとんどは、それ以降に建てられたものなのです。

その当時、この近くには、棟梁の長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)という宮大工が住んでいました。連日の激務のためか、高次は四方に建てる予定だった柱のうちの1本を短く切ってしまいます。代わりの木材は簡単に手に入るわけではなく、かといってそのまま建てると歪んでしまうと思い悩んだ高次は、女房のおかめに相談します。「では、ほかの柱も全部短くしてしまえばよいのではないか」と提案を受け、妙案とばかりに他の3本も短く切ってことなきを得ます。しかし、「素人の自分の思い付きで、もしこのことが世間に知れたら、名棟梁の名声に傷がついてしまう」と思ったおかめは、上棟式を前に自害してしまいます。これを悲しんだ高次は、おかめの顔や優しい心をお面に刻んで、三本の扇子と一緒に棟札(建物建築の記念に、建物の由緒や建築関係者、建築年月日などを記した札)の上に掲げることにしました。

この棟札は今の京都にも伝わっていて、おかめのお面をつけた棟札を天井裏に納めるそうです。本土の前に立つ石塔は、江戸時代になってから、おかめの功績をたたえて建てられ、やがて「おかめ塚」と呼ばれるようになり、夫婦円満を願い人たちの信仰を集めていると言います。

このように、1200年の時を超えて、京都には町の至る所に、その時代に生きた人々のくらしや戦い、恋などが刻まれているのです。京都観光する際は、きらびやかな面だけでなく、せつない物語にも思いを巡らせてみてください。

幻冬舎のコメント

京都といえば、雅で煌びやかなイメージが一般的かもしれません。しかし、実は寂しさや侘しさを内包しているから、人はこんなにも心が惹かれてやまないのでしょう。

実際、千二百年の歴史を持つ都には、悲話の残る小さな寺社が多いのです。平清盛に心変わりされた祇王が出家した「祇王寺」、愛する男と生きるためすべてを捨てた遊女の眠る「常照寺」などなど。

また、朝陽に照らされた東寺五重塔、大覚寺大沢池の水面に映る景色、野宮神社の“黒い”鳥居など、街中で、ふと足を止めて見入ってしまう物悲しい光景にもたびたび出会えるのが、京都の魅力です。

綺麗、楽しい、美味しいだけじゃない、センチメンタルな古都を味わう、上級者のための京都たそがれ案内を、どうぞお楽しみください。

【Kindle版】せつない京都
【書籍版】せつない京都

構成・文:吉成早紀

編集:アプリオ編集部